都市対抗野球18日開幕 初出場松山フェニックス 創部15年目「地元に恩返し」

日本経済新聞より一部抜粋

 四国地区代表として初出場するのが松山市のクラブチーム「松山フェニックス」。練習環境や活動時間のハンディを乗り越え、予選で企業チームを連破してきた。

 クラブが結成されたのは2000年2月。前年に地元の強豪NTT四国が廃部となったことを受け、「愛媛から社会人野球の灯を消さない」とNTT四国の元部員や千原宏之・現監督(54)が立ち上げた。チーム名には「一度は野球を諦めて挫折した人間が、不死鳥のように表舞台に復活する」との思いを込めた。

 遠征費や用具代などにかかる年間の活動費は約600万円。それを個人・法人の後援会費とメンバーから集める月五千円の部費、松山市と地元企業からのユニホーム広告費でまかなう。選手19人の職業は信用金庫職員や自動車販売の営業マン、小学校教諭など様々。練習は高校のグラウンドや室内練習場を借りて行うが、週三回の全体練習に選手全員がそろうことはほとんどない。

 費用と時間の制約もあり、初出場した01年日本選手権の1回戦でJR東海を破る番狂わせを演じてからは、全国舞台からは遠のいていた。転機は12年10月。高松市への転勤で一度は退いた千原監督が復帰し、田渕哲也主将(27)と話し合いを重ねて一大決心をした。

 それは名指しでの退団勧告。当時のチームには好きな野球をやることに満足してしまう、ぬるま湯的な雰囲気が漂っていた。だが、「地元の支援で野球をやらせてもらっている以上、結果で恩返しをしないといけない」と千原監督。10人ほどが部を去る荒療治となったが、これでチームが一つにまとまった。田渕主将は「苦しい決断だったが、勝ちを求めるワンランク上の集団にしたかった」と振り返る。

 松山大学からチームに入った23歳の右腕、松井佑二は生まれ変わったチームを象徴する一人。2次予選では四国銀行、JR四国を連続完封。「都市対抗で活躍してスカウトに名前を売り込みたい。フェニックスからプロ入りするのが目標」と意気込んでいる。

 これは痛いほど理解できる記事。デッツォもクラブチームだし。